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BIBLE 新約聖書の神の愛と旧約聖書のカナンと土地のヨ

BIBLE 新約聖書の神の愛と旧約聖書のカナンと土地のヨ。質問者さん、結論からいうともっと勉強してください。【裏テク】新約聖書の神の愛と旧約聖書のカナンと土地のヨシュア記の侵略の関連性がわかりません上達完全マップを39ヶ月やってみた。新約聖書の神の愛と旧約聖書のカナンと土地のヨシュア記の侵略の関連性がわかりません 新約聖書では敵を愛しなさいと説いているのに、ヨシュア記では滅ぼしています どう考えればいいですか BIBLE。すでにここまでにも神様の約束が出てきますが。旧約?新約が古い契約?新しい
契約をあらわすとすると。それらが何かは重要です。モーセ5書の次の
ヨシュア記からはじめるのも。そのあと。士師記から始めるのも。サムエル記上
から始めるのも良いですよ。旧約聖書には明確には書かれていませんが。使徒
行伝章節?節にはモーセが荒野でエテロのもとにいた期間を歳出
エジプトからカナン侵入。現代の通常の言葉で表現すれば。侵略となります。

美人におすすめ!新約聖書の神の愛と旧約聖書のカナンと土地のヨシュア記の侵略の関連性がわかりませんでお小遣い稼ぎに最適なWebサービスいろいろまとめ2つ。説教の題名を押して下さい。遊女ラハブが登場するヨシュア記のヨシュアという人物は。イスラエル民族を
エジプトから脱出させたモーセの後継者です。イスラエル民族は。ヨシュアの
指導の下で神が約束して下さったと言われている土地カナンに攻め込んでいく
このラハブは。新約聖書のヘブル書やヤコブ書では。「信仰によって。娼婦
ラハブは。様子を探りに来た者イエスの家系なんてまったく判りません。アカンの罪。旧約聖書。ヨシュア記 第章-節? 新約聖書。使徒言行録 第章-節? 讃
美歌。。~カナン人やこの土地の住民は。このことを聞いた
なら。わたしたちを攻め囲んで皆殺しにし。わたしたちの名を地それなのに。
あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」。ここはその前後を読ん
で頂けば分かりますが。神の救いの実現を約束している箇所です。

【注意】新約聖書の神の愛と旧約聖書のカナンと土地のヨシュア記の侵略の関連性がわかりませんの基本をサルでもわかるようにまとめた。知的社会研究所内山敬康。2ヨシュアのカナン征服からダビデ?ソロモン父子の王国の盛衰までさて
。われわれがユダヤ教原理主義とは何かを考えるには。神話?伝説の古代まで
さかのぼらねばなりません。2千年の昔。選民思想は。一見ナショナリズムと
関連しているように思わせます。つまりこの宗教の核心には他人の土地への
所有権の主張があり。それは侵略である。ユダヤ人が信仰の根本に据えている
のは旧約聖書の最初の五書創世記。出エジプト記。レビ記。民数記。申命記
である。第8講:一神教における愛と平和と皆殺し。旧約聖書のヨシュア記ほど日本人の感性から見て受け入れがたい物語はないだ
ろう。を指導して,ヨルダン川を渡りエリコの戦いを遂行,先住民を皆殺し
にして約束の地カナンを征服し,シケムで神と再契約するまでの記述である。
アイの王も民も周辺の土地もあなたの手に渡す』中略その日の敵の死者は
男女合わせて一万二千人,アイの全住民であった。ヘルスケア関連商品
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STUDY。聖書の数は ⑴創?出?レビ?民?申命記 ヨシュア?士師?ルツ?サム?列王
歴代?エズ?ネヘ?エステル記ヨブ?初代教会では。このように地所や土地を
売り。それを使徒たちのところに持ってくるということは。一般的に行われ
旧約における神の経綸は。救い主イエスがこの世に来られることによって終わり
。新約の経綸に移ったはずなのです私は。どうして死ななければならないほど
のさばきがここで行われたのかはわかりませんが。一つだけ確かなことが
あります。

質問者さん、結論からいうともっと勉強してください。そして、キリスト教の教会組織にだまされないでください!聖書は歴史的事実を書いているわけではありません。旧約聖書は歴史と重なる部分もありますが、その大半は歴史的叙述の形式を借りた物語であり、「救済史」という歴史観です。なので、旧約聖書で、神エホバの言動を擬人的に描いていても、これを歴史上の事実だと読み取る者は、わかりやすく言うと教養の足りないアホということになります。あくまでも比喩であり類比として受けとめなければなりません。イスラエルがカナンに定着するうえで、原住民族と戦ったことは考えられます。しかしその「侵略」は彼ら人間がやったことで、神が命じたことではありません。それは、そのように人間が書いて物語を作ったのです。言わば神話です。新約ではイエスが敵を愛することを教えています。その「敵」というのは、イエスが生きていた時代と社会の枠組みに限定された状況における迫害者としての「敵」なので、これを時代や社会を超えた一般的な意味の「敵」とみなすことは間違いだし、そんな抽象的な「敵」を愛する無償の「愛」なんて内実の無い理想にすぎません。イエスはけっして理想主義者ではなく、当時の社会的に抑圧された人々の生命を聖書=当時はキリスト教でいう旧約聖書。「ヘブライ語聖書」ともいう。よりも先行するものとされました。質問者さん、いいですか!イエスは聖書至上主義ではありません!当時の聖書主義はすなわち律法主義ということになります。現在の福音派の牧師も聖書主義という名も律法主義なんです。一義的な解釈しか認めない、自分たちの解釈を絶対化して、そうでない立場の者を悪魔の手先のような言い方で誹謗中傷しています。まったくけしからんことです。イエスがいかに「旧約聖書」=「タナハ」=「律法、預言者、諸書」、ヘブライ語聖書から自由であったかということは、所謂、山上の説教の徹底命題とか反対命題といわれる一連の言葉に示されているのです。最も象徴的に示しているのが、「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」マルコ福音書2:27~28という言葉です。第一に尊いものとして既成宗教であるユダヤ教を改革しようとし、その志半ばで挫折処刑されたのです。いわゆるクリスチャンの中にも「福音派」と呼ばれる連中にそういう人たちが多くいるのです。それで、旧約の神と新約の神とを分けるような愚かなことをすることになります。アホな福音派は解釈ということを認めないのです。だから聖書を文字通り事実として読み取ることが「敬虔」であると錯覚しております。しかしそうではありません。聖書は歴史的批判的に読まないと、現代社会の生活から乖離してしまいます。特に人権問題や平和問題です。聖書を文字通りにつまり多義的な聖書を一義的にドグマティックに読み取ろうとするアホな福音派の原理主義者たちが「同性愛は罪だ!」とか「アメリカ軍をはじめとする多国籍軍は十字軍の再来だ!イスラム過激派との戦いは聖戦だ!」みたいなタワケたことを言い出すのです。さて、聖書は旧約も新約も合わせてトータルで「唯一の神」を証言しています。それは「イエス?キリストの父なる神」です。「敵を殺せ」というのは、彼らが強者であった時の話です。「敵を愛せ」「許せ」というのは、彼らが弱者になった時の話です。生かすも愛殺すも愛人殺しが愛か? そうです、愛です。感謝もしないで、平気な顔で殺した牛や豚を、食べ生命を維持している人には、絶対に分からんでしょうかね…。天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。伝道者の書3章全て神の栄光へ帰するため。bre********さんが、教科書的なわかりやすい回答をされているので、その補足として。神は愛であり、赦し、救います。また、神は義であり、裁き、滅ぼします。質問者さんの「新約聖書では敵を愛しなさいと説いている」というのは、マタイの福音書5章44節「あなた方も聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という、イエスの山上の教えを意図しておられるのでしょう。この「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とイエスが教えられた当事の、イエスの宣教活動はイスラエル人を対象としたものであり、当時のイスラエルの敵は、支配者であるローマ帝国であり、あの教えはその文脈で読解するべきです。ですので、敵を愛し迫害するもののために祈るというのは、第一義的に、イスラエルに駐留し、日常的に労働の役務を課す、ローマ兵に対する態度を教えています。そもそもイスラエルがローマの支配下になったことは、イスラエルへの神の裁きであり、そこでは選民意識による反抗ではなく、従順を学ぶことが求められていたからです。また、新約聖書の黙示録には、この世に対する神の裁きが記述されており、こちらの内容は、カナン侵攻同様に厳しい裁きであり、神に従うことを拒んだ者をすべて滅ぼしています。カナン侵攻はイスラエル人により行われたので不完全でしたが、黙示録は神ご自身が行われるので完全です。>旧約聖書の時に罪深い人類を作り変える方法を示していれば、神様はイスラエル民族を使って滅ぼすということをせずに伝道という方法とかでカナン人を悔い改めらせる方法をとったということですか。そうです。ですが、神はカナン人を悔い改めさせるのではなく、イスラエル人によって滅ぼすことをよしとされました。ヨシュア記のカナン侵攻、黙示録の裁きは、ともに神の定めです。 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。神は主権者であり所有者ですので、誰をどの時代に生かすのか、誰を赦しに導いて救うのか、すべて御自身でお決めになります。@新約聖書ローマ人への手紙口語訳9章18-23節だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。と書かれているとおりです。旧約時代の聖戦は、どうしようもなく悪いカナン先住民を、神様がイスラエル民族を使って罰しました。つまり神様の正義を行われたということです。ちなみに、イスラエル民族が悪いことをすると、諸外国アッシリア、バビロンなどを用いて、神様はイスラエル民族を罰しました。神様が悪を憎む正義のお方であることは、新約時代でも変わりません。しかし、神の御子イエス?キリストの到来によって、神様は「罪深い人類を正しい者へと根本的に造り変える方法」人類との新しい契約=新約を示してくれました。エレミヤ31:31~34 見よ。その日が来る。──主の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──主の御告げ──彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──主の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──主の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」まずはじめにイスラエル民族、そして異邦人全人類に至るまで、神様はその恵みを与えてくれました。キリストを信じる者は、聖霊によって新しく生まれ変わり、「自分の敵を愛する者」になることができるのです。「イエス?キリストによる救いの知らせ福音」Ⅱコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。エペソ2:1~10 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──キリスト?イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト?イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト?イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。 2:11~16 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト?イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。 キリストこそ私たちの平和であり、二つのもの=ユダヤ人と異邦人を一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。 2:17~19 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者=ユダヤ人と異邦人ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。新約聖書「ヨハネの黙示録」未来の人類も殺されることになっていて、神に選ばれた者だけが生き残ることになっています。キリスト教の世界宣教の成功は、この神の殺人命令の論理によってなされました。正直言ってしまえば、新約聖書は旧約の開発時期から安定期に移ってからですから、解釈もかなり変わっているというべきものです。イエス自身「あの時はヒトの心かかたくなだったから」などという表現で旧約の解釈を変えています。さらに言えば新約聖書は一般向けの話と弟子らに対する話をと区別しなければ正しい解釈はできません。敵を愛せよというくだりはまさに弟子らに対する戒めです。でなきゃ、洗礼を受けるたびに全財産を捨てなきゃいけなくなるじゃないですか。割礼だってしなきゃならない。私はしてますけどそして使徒行録に至り、信者になることに対しても異教徒であったものが洗礼を受けるのに割礼はしなくていいと変更されています。洗礼も水のバプテスマから肉のバプテスマ、そして聖霊のバプテスマへと変化しているのです。つまり、旧約は形成期、動乱期と言える時期の教えです。新約は安定期の教えでもあります。そしてその教えが自分に向けたものなのか、より神に従って生きるべき人に向けての物なのかを理解しなければなりません。さらに何をしたかではなく、まず何をすることがより神の思いに近いかを考える事です。隣人を愛せよ、という「隣人」が誰であるかもちゃんと聖書には書かれています。それを理解すべきですね。非常によくある質問のひとつで「敵を愛し」を単純に誤解しているゆえに起こる疑問です。結論から言って、敵は戦うべき相手であることにかわりはありません。ヒントになることを2つ述べましょう。1.ひとを愛する、とは親切にしてやり優しく思いやりをかけてやること???ではない。敵を愛するとは敵を敵でなく友人か兄弟のように心通わせようとする対象ではない。それを間違えるわけは、戦い終わったあとのノーサイドが美しいというスポーツマンシップが紛れ込んでいるのではないか。 敵とは自分や妻子兄弟の生命財産を奪おうとする相手、それを阻もうと命のやり取りをする相手だ。そんな相手に寛容にする理由はない。やさしい顔をしたとたんに寝首をかきにくる。 敵を愛するとは、だから、なんとなく優しくすることではなく、敵を敵として扱うことだ。しばしば戦場心理では敵が人間と思えなくなるという。そうだと思う。自分を殺そうとしている、という心理を体験してみないと分からない。殺されるまぎわに汝の敵を愛せよと思って大人しく殺されるか?人間は生命への執着が最優先最大の至宝である。 だから敵を敵として扱う、ということは結構難しいのだ。仲間を殺され、妻子を犯され奪われたとき人は復讐を越えて残忍にその敵を惨殺せずにおかない気持ちが起きるのがしばしば事実として見られるではないか。 そこまでやっては「敵を愛し」ではない。敵を敵として殺すこと、それが敵を愛することなのだ。相手も神との関係にある人間だと認識すれば、残忍をやってはいけないということが納得できるというものだ。2.「敵を愛し」マタイ5:44の前節に「隣人を愛し」とあるように、汝の隣人のように汝の敵を愛せよ、とある。しかし愛するのは汝の敵だ。 そこで古代から中世のカトリック教会は「汝の敵を愛せ、しかし神の敵は殲滅せよ」を実践したのだ。歴史がその膨大な事実を示しているのはご存知のとおりだろう。モーセとの契約で神様は「民族の救い」と「臨在」を約束しました。神の臨在する民、神の民…神の民に敵対する者は、悪の勢力、粛清との事です。では、実際、粛清対象の民はどうだったか?平凡な民では無かった様です。アブラハムには「其処の民の罪が満ちる…」モーセには「土地が先住民を罪故に吐き出した…」と書かれてますから、随分罪深い民の様です。新約に成って、神の臨在は「ユダヤ人」に留まらず、世界の民に向けられ約束と成りました。旧約の時代になされた事は「影」と聖書では表現しています。影から何を学ぶのか?です。己の心に潜む「神様への疑念」を侵略して排除しなさい…と旧約聖書は教えてます。己の幸せは、他人の犠牲の上に成り立っている。そんな当たり前のことから目を背け、「みんな幸せに」なんてのは偽善にすぎる。幸せになりたいのなら、戦え。「みんな幸せに」なりたいのなら、自分の命を捨てろ。そのどちらにも、神が共にいる。自分の命を捨てられない者は、どのみち他人を踏み躙ってでも勝ち取るしかない。それが人の罪というものだ。まあ、ユダヤ教の伝統の 1 つでは、モーセに託された神の言葉を、ヨシュアがすべて覚えきれなかったから、とも説明する。そもそも神の言葉は、モーセが山から降りてきた時にイスラエルの民が金の子牛を拝んでいたことで汚された。イスラエルの堕落、ひいては人類の不幸は、モーセが神の言葉を授かった瞬間から始まっていたわけだ。—文学史的に言えば、旧約歴史書は「土地取得物語」と「土地喪失物語」が一体になっているんだよ。カナンの地は弱者に目を向けなくなったので、アブラハムの約束通り、イスラエルに渡された。そのイスラエルが、その地で驕り高ぶり、弱者に目を向けなくなった時、イスラエルもまた侵略されて滅んだ。そういう歴史観だ。だから「神の究極的な解決」を期待するわけでしょ。人間の問題が、もはや人間には解決できないものになったとき、人間はどうすればいい。

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